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風魔のヴォーカル、島津タカヒサでございます。
歴史文学の大家、海音寺潮五郎氏の短編集 『乱世の英雄』 作中にあった、耳に痛い言葉がこれ。
「あらゆる技術は、狂気の時期を経なければ身につかないものである」
宮本武蔵の激烈なる生涯について触れた後、すべての剣豪やその他諸々の道を究めた「技術」習得者が例外なくこうした「狂気の時期」を通して会得したのだと断じているのである。
この一文を読んで、私は頭を抱えてしまった。
武蔵のように真剣勝負チャンチャンバラバラな命のやりとりをしたことはないけれども(当然か)、音楽や歌に対して、自分が狂気の時期を捧げて来たものかどうか。
100%イエス!なんて、とても僕には言えない。
音楽が好きで好きでたまらず、寝ても覚めても頭から離れなかった時期。
近所迷惑を承知で、実家の自室で大声で歌い込んだ時期。
色々なバンドをとにかくコピーしていた時期。
音楽仲間からさえ「キモい」とまで言われるぐらい音源を漁りまくっていた時期。
苦心して詞や曲を作り出している時期。
過去のものも含めどれも懸命にやっている(た)ハズなのに、それが狂気の時期かと問われれば、それはさすがに…、と思ってしまう。遺憾ながら。
海音寺氏、まことにキッツイことをのたまっていらっしゃった。
今は亡きご本人、さぞかしインセインな鍛錬を積み重ねたがゆえの必殺の一文だったのだろう。
で、よーし、おれもクレイジーに道を極めるぞ! と決意を固めたわけなのである。単純ですね。
… … …
海音寺氏は、高名な剣豪が生涯無敗であったカラクリを指摘する段で、
「他流試合を極力避けていた」
とバッサリ斬って捨てている。
流派の違う剣豪と立会いをしてもし負けてしまった場合、築き上てきた名声が崩れ去るわ門弟が減って道場の経営がうまくいかなくなるわで何もいいことが無かったとのこと。
なるほどね、頭いい。大人の知恵ではある。
でもズルい。
狂気の行き着く先がズルさであるならば、何だかとてもやるせない。現実という壁の前で「狂気」は沈黙せざるを得ないのか。
これについては、100%ノーと言える。
だって、
「狂気」の壁はもはや三十年以上前に崩れ去っているんだから。
(オチのわかった方はすばらしきクレイジー同志! しかし時代柄、私は実際には観ていないのであしからず)